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名古屋地方裁判所 昭和32年(わ)2355号 判決

被告人 池田忠男

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の主たる訴因は、「被告人は昭和三十二年十一月二十日午後九時五十分頃名古屋市西区泥町三丁目一番地先路上に於て山中徳次郎(当二十九年)と些細な事から口論の末、矢庭に同人を路上に投げ飛ばし因つて同人に後頭部挫創、頭蓋内出血に依る意識喪失の傷害を与え、右傷害に基き同月二十一日午後七時四十三分同区俵町三百十三番地名交病院において硬脳膜下出血兼脳挫傷により死に致したものである」、というのであり、予備的訴因は、「被告人は松村勇夫と共に昭和三十三年十一月二十日午後九時五十分頃名古屋市西区泥町三丁目一番地先路上において山中徳次郎(当二十九年)と些細な事から口論の末、被告人は右山中を路上に投飛ばし、松村は起き上つて襟元に掴みかかつてきた右山中の両手をもつて突き放し、同人を路上に倒し、因つて同人に後頭部挫創、頭蓋内出血による意識喪失の傷害を与えたところ、その軽重を知ることができなかつたが、右傷害に基き同月二十一日午後七時四十三分同区俵町三百十三番地名交病院において硬脳膜下出血兼脳挫傷により死に致したものである」、というのである。

公判廷における証人山崎一郎、山田不二男、小林きく枝、松村勇夫の各証言(松村については昭和三十三年二月十日の公判廷における証言)、司法警察員作成に係る小林きく枝、山下幸夫の各供述調書、検事作成に係る小林きく枝、山下幸夫、西田喬の各供述調書、司法警察員作成に係る泥町三丁目一番地先路上及同所二番地栄屋こと小林きく枝方屋台店の実況見分書、岡田良平作成の死亡診断書、古田莞爾作成の鑑定書、公判廷に於ける証人古田莞爾の証言を綜合すると次の事実を認定することができる。即ち被告人松村勇夫、西田喬の三名は、昭和三十二年十一月二十日午後八時過頃、名古屋市西区泥町三丁目二番地の江川端通りに面する空地内に在る小林きく枝が経営する屋台店「栄屋」へ酒を飲みに行き、前からいた客の山下幸夫や、後から来た山崎一郎、さらにその後に来た山中徳次郎、山田不二男の二人連等と共に談論するうち、被告人は酒に酔つて他人と口論を始め、山崎が小用を足そうとして外に出たのを追つて屋台店を出た。松村は之を制止しようとして、屋台店前の道路上で被告人と口論となり、互に相手の肩を突合つたりした。山田が之を仲裁しようとしてそこへ来たところ、被告人は山田を掴えて投げ飛ばした。山中も店から出て来て山崎が山田を倒したものと誤認し、山崎へ突きかかつて行つたが山田が之を制止したので事なきを得た。それより山下を除いた全員がゴタゴタしながら南の方へ二十数メートル歩いて四つ辻に達し、山崎、西田、山田等は右折して西方の市電江川線の方向へ歩き、稍々遅れて被告人松村、山中等が一団となつて行つたが、午後十時頃四つ辻の中心より稍々西寄りの地点で、山中は何者かに倒されて、屋台店に担ぎ込まれ、さらに名古屋市西区俵町三丁目十三番地名交病院へ入院したが、翌二十一日午後七時四十三分頃同病院に於て死亡した。山中の死因は後頭部打撲による硬脳膜下出血で、その死因となるべき創傷は後頭部に在る二、五センチ×一、二センチの挫創一個であり、この傷はただ一回の打撃によつて生じ得るものであつて、二回の打撃が加つたものとは容易に考え難いこと等である。

次に本件に於て被告人が犯人であるかを決めるための重要な証拠は(1)公判廷に於ける証人田所荘六の供述、(2)昭和三十三年二月十七日の公判廷における証人山崎一郎及び山田不二男の供述、(3)公判廷における証人小林きく枝の供述及び同年六月十六日の公判廷における証人山崎一郎の供述、(4)被告人の供述を録取した調書及び公判廷における被告人の供述並びに被告人作成の上申書、(5)公判廷における証人松村勇夫の供述並びに司法警察員及び検察官作成に係る同人の供述調書等であるので、之等について以下に検討する。

(一)、証人巡査田所荘六は公判廷に於て、

(イ)、「屋台店で、おかみと池田が口論をしていた。その内容は、おかみのほうは、池田に対してあんたが柔道で投げるでいかんわ、そのときに、池田のほうは、こいつが殴つてきたからおれが投げてやつたと、そういうことを言つていた」

(ロ)、被害者を救急車に乗せたとき、「その連れがあいつにやられたんだと言つて池田を指した」

(ハ)、「西署で、池田が二人の連れに対して、お前達はこの事件に関係がないで早く帰して貰えというていたので、間違がないという確信を抱いた」

(ニ)、「事件後一ヶ月位して駒止町の市場でおかみに会つたとき、おかみが池田のことを、あの人は悪い人だというた」

と述べている。

(イ)については、公判廷に於て証人巡査早川金市が「何か柔道という言葉を聞いた、前後の言葉は判らん、左を見たら池田がおつたと思う」と供述して、あいまいではあるが田所証人の証言を支持するかのようなことを言うている。然し証人小林きく枝は口論をしていたことを否定し、柔道云々については「池田さんが余りごてごて言うものでこんなことになつたと言つたら、池田は俺等につき合うときは真面目につき合えと言うただけで、田所証人の言うようなことは言うた覚えがない」、「山田が店を出たとたんに池田さんが投げるところは見ましたが、その後のことは判らない、パトカーが来ていた頃柔道がどうのこうのということは聞いていない、パトカーが行つてしまつてから山崎から話を聞いて池田が柔道を知つていることが判つた」、と証言して、柔道云々とは言うていないし、言うはずがないと説明している。小林きく枝は警察、検察、公判を通じ一貫して被告人等が屋台店の前から四つ辻の方へ向つて行つた後のことは知らないと述べており、他の証拠によつても右供述は信用できるので、小林証人の供述の方が事実に符合するものではないかと考えられる。なお田所証人は「当時の自分の職務は被害者の救助と、誰が犯人かを知ることであつた」、と述べて犯人の確認も目的の一半であつたことを明らかにしているので、もし同証人が言うような対話が被告人と小林きく枝との間に交わされたとしたならば、直ちに小林又は被告人に向つてそれを確認する手段に出づべきが通常であり、又それが職責だといわねばならないのに聞き流して、確認する手段を取らなかつたと述べ、その訳は被害者の救助に忙しくて余裕がなかつたからだと説明するけれども、当時の救助とは具体的には被害者を救急車に乗せて病院へ運ぶだけのことであるから、犯罪捜査の目的を持つ巡査が前記の対話を確認するに要する数分の余裕もなかつたということは容易に肯定し難く、しかも他に之をしなかつた特別の理由も認め得ないのであつて、之をしなかつたということは即ち、かかる対話がなかつたのではないかとの疑を挿しはさむに足る余地を生じ之と前記小林証人の証言と合せ考えると、(イ)のような対話が交わされた事実の存在は甚だ疑わしいこととならざるを得ない。

(ロ)については、被害者山中の連れである山田不二男は公判廷において、検事の「パトカーの巡査が誰がやつたんだと訊かなかつたか」、との問に対して、「訊かれたと思うのですが、その時どんな風に返事したか覚えがありません」、と答えている。山田は被害者山中の友人で同夜一緒に飲みに行つた者であり、自分も被告人に投げ飛ばされているのであるから、山中に対する犯人が誰かについては深い関心を持つていたはずで、もし犯人が誰であるかを知つていたとすれば巡査の質問に対して答えた内容を覚えているのが相当だと考えられる(当時知つていたならば公判廷に於て質問を受けた際にも知つている筈であるから、公判廷において右様の質問を受けたならば如何様に答えたかを思い出す筈である)のに、それを覚えていないのは、田所証人の言うようなことを言うていないからではないかとの疑を持つ余地が十分にある。

(ハ)については、田所証人と同時同所で被告人の話を聞いていた証人早川金市は、公判廷において、検事の問に対し、「池田は連れの二人に対して今日のことは俺さえおれば判るんだ、お前達は帰して貰えばええじやないかというた、俺がやつたんだというふうには私は取つておりませんでした、池田は酒のせいもあつたかも知れませんが非常に達弁であつたという関係で言つたのか、あるいはお前達は全然関係ないというつもりで言つたのかというどの程度信用していいかわかりませんが、私としては別にどうというふうには感じなかつた」と答え、次いで検事が「あなたがきいた記憶があるという言葉としては、わしがおればわかる、お前らは関係ないで帰してもらえというわけですか」との問(証人は、被告人が“お前らは関係ないで帰してもらえ”と言うた、とは言うていない)に対し、「そこのところはつきりわかりませんが、私としてはそんな記憶です」と述べ、検事の、「もう一ぺんその点繰り返して記憶しておる内容を言つてもらえませんか」との問に対し、「たしか関係ないから帰してもらいなさいと言つたと思います」と答えたが、次いで弁護人の「今日のことは、俺さえおれば判るということは、俺がやつたからという意味ではないようにも取れるが」との問に対し、「そのとき確か池田は、松村と西田に、明日の仕事の都合があるからと言つたのか、或は親方が心配するからと言つたのか、そんなようなことで早く帰して貰いなさいと言つたと思う」と答え、結局被告人は他の者は事件に関係がないから早く帰して貰えという意味のことを言うたのではない趣旨のように答えているので、田所証人のこの部分の証言は、たやすくは信用し難い。

(ニ)については、証人小林きく枝は公判廷において、「事件後池田の同僚の人から、池田は酒を飲むと癖が悪いということを聞いたので、田所巡査に会つたとき、酒癖が悪い人だと言つたと思う」と述べている。小林は被告人の性格の善悪についてまでも批判するだけの材料を持つていたと思われる証拠はないので、小林証人の証言が正しく、田所証人の証言に誤りがあると考えるのが相当である。

証人田所荘六の証言内容は事実に反するか若くは事実に反する疑があると言わねばならない。同証人は被告人を検挙した巡査で、その有罪無罪については深い関心を持つため、諸事実を被告人に不利益に聞取り又は解釈したのではあるまいか。

(二)、昭和三十三年二月十七日の公判廷における証人山崎一郎及び証人山田不二男の供述について。

山崎は、「倒れた人をおばさんが抱き起そうとしていて、私が傍へ寄つて誰がやつたのかといつたら池田が傍にいて、お前もかといつて私に殴りかかつて来て、顔を一つ殴られ、その上掴まえられて投げとばされた」、「背負い投げのように投げられた」、「山中をやつたのは池田だろうと思う」、「池田は山田を投げているし、私も殴られ、電車通りの方から帰つて来て誰がやつたんだと言つたら池田がお前もかと言い乍ら向つて来たので」、と述べ、山田は、「山中が倒れた後……池田の近くに寄つてお前がやつたなというたら、いきなり私をひつくり返した、池田がやつたということは直感的にそう思つた、私も投げとばされたし、山崎もやられたから」、と述べている。これらの証言は被告人の行動を認定する上に或る程度力ある証拠となるものではあるが、いづれも被告人の犯行を現認したものではない点に欠陥があり、之によつて被告人の犯行を肯認するためには、他にも有力な証拠があるか、又は之を否定する証拠がないことが必要である。

(三)、公判廷における証人小林きく枝の供述及び昭和三十三年六月十六日の公判廷における証人山崎一郎の供述について。

小林は、「山崎が後から来て、山中が投げられたのは池田がやつたことだと言つていた」、と述べ、山崎は、「おばちやんは池田だと言つていた、自分も言つたかもわからんが、おばちやんも、そうだ池田だと言つた」、と述べている。(1)の(イ)及び(2)に挙げた小林及び山崎の証言を合せ考えれば、山崎が小林にこのように話したであろうことを認めることができるが、之は山崎が(2)の証言内容に現われた事実によつて感じたことを述べたものであつて、結局(2)と同一の証拠であり、それ以上に新らしい証拠を追加することにはならない。又小林は前認定の通り山中が暴行を受けた頃は屋台店の中にいて、犯行を現認していないのであるから、自ら積極的に犯人が池田であると述べたとは考えられない。尤も小林は屋台店の前において被告人が山田不二男に暴行したのを見ているから、山崎が「池田がやつた」と述べたのに対して合槌を打つようなことはしたかも知れないけれども、それは単なる想像に過ぎないものであるから之に証拠価値を認めることは相当でない。

(四)、被告人の供述を録取した調書、公判廷における被告人の供述、被告人作成の上申書について。

(イ)、被告人は事件直後に犯行を否定している。このことは証人早川金市が公判廷に於て、検事の、「きみがやつたかという点についてはそのときには池田にきいたんですか」との問に対して、「交番所へ来てから聞きました、池田君はやらないと言つたのです」、と答え、さらに「そのときに私が言うたのはたしか池田君も覚えておると思いますが、すべて良心に従つて言わにやいかん、やらなかつたことは言う必要はないがやつたことははつきりと言つてもらわなきや困るということはたしか言つたと思います」、と述べ、弁護人の、「池田君は派出所でおれはやつていないということを言つてあなたが何か良心にどうとかで、本当のことを言わにやいかんぞと言つたことに対して、池田君は何か言いましたか」、との問に対して、「やはり知らんと言いました」、と供述していることにより明らかである。

(ロ)、司法警察員作成に係る被告人の供述調書について。

右調書には(1)「屋台店の前で知らん背の高い人が突掛つてきたのでその人を確か角力の外掛けのようにして投げた、この男は山田不二男さんであることは警察で顔を見て知つた」、(2)「空地の横の道路の方で誰であつたか見知らない男が突掛つてきたので、何をと思つて理由も判らずに服の前を掴えて投げた、どうして投げたか覚えない、はずみか何かで私が上になつたと思う、すると西田か松村かが止めてくれ、立つてから西田や松村やお客さんを相手にして又暴れた、そうしているうちに私が人を投げたところに人が転つているのを見て、その人を誰かが飲屋のところまで吊つて行つた、私はあとで私が投げて怪我させた人が山中徳次郎であると聞いた」との供述記載がある。

(1)の屋台店の前で被告人が山田不二男を投げたことは、被告人が後で山田の顔を見せられてその人であることが判つたと述べており、証人山田不二男、山崎一郎の各供述とも一致するので誤りはない。次に(2)の部分の字面を一読すると、恰も被告人が空地の横の道路で山中を投げとばして怪我さしたことを自白したかのように受取れなくもないが、深く検討すると、そうでないことが明らかとなる。即ち(A)被告人は、後で自分が投げて怪我させた人が山中徳次郎であると聞いたと書かれていて、自分が山中徳次郎を投げて怪我させたとは書いてない、そして誰が被告人にその旨聞かしたかはこの調書自体では明らかでないが、被告人の公判廷における供述によると被告人を取調べた警察官であることが認められるから、右供述記載部分は結局被告人を取調べた警察官の意見が記載されておるに過ぎないことになるのであつて、被告人がその事実を認めた所謂自白とはならないのである。(B)然しそれはそれとしても、その余の供述記載部分が事実と一致するならば飲屋へ吊つていかれた人が被害者山中徳次郎であることは明らかな事実であるから、結局は本件犯行を自白したこととなるのであるけれども、この点においても甚だしい疑問が存する。それは(a)(1)の山田不二男を投げた方法については、外掛けのようにして投げた、と、投げた方法を具体的に説明しているのに、(2)については、服の前を掴えて投げたというだけで投げた方法を具体的に説明してないことと、(b)投げた後の被害者及び被告人等の行動等が山中が投げられた後の情況らしくなく、むしろ山田不二男が初めに投げられた後の情況に酷似した説明がなされていることである。これは証人山田不二男の公判廷における、「池田と松村の二人が表え出て行つて争う様にしていたので、私が止めに入つたところ、いきなり道路え叩きつけられ、前向きに倒れて両肘を地につけてしまつた、その後電車道の方へ行く角の処で皆でごたごた言いあつていた、その時、私、松村、池田、山中、それから松村の連れ等がいた様に思う、それから私と池田の連れの年の若いのが電車道の附近まで来てごたごたやつていたら、後から小母さんが山田さん山田さんと呼んだのでふり返つたら、山中が倒れていた」旨の供述、検事作成に係る松村勇夫の昭和三十二年十一月二十九日附供述調書中の、「池田を表の道路上に連れ出し、十字路の附近まで行き、曲り角の所で、君けんかをしたらわし等の立つ瀬がなくなるぢやないか、と言つていさめて居ると、山田が出て来て何か一言二言言いました池田はけんかを仕掛けて来たとでも思つたのか、いきなり、山田の両手を持ち腰払いと云うのかどうか知りませんが前え投げつけたため山田は四つんばいになつてのめる様にして倒れた、その上え池田は馬乗りになつたので私は池田の腕を持つて引張つて起しました」、との供述記載、昭和三十三年二月十日の公判廷における証人松村の「屋台から半丁離れた空地の近くで池田と山田の取組みとなり、山田が投げられ道路上え転がつたので、私は池田の手を引張つてよせよせというた」旨の供述、同年五月二日の公判廷における同人の、「池田が山田を投げた場所は大体店の前附近だつたと思う」、「山田は池田に投げられて四つん這いになつたので仰向けに転がつたわけではない」旨の供述、同年二月十七日の公判廷における証人山崎一郎の、「屋台店の正面あたりで道路の西側で山田が池田に背負い投げの様に投げられた、この傍に池田の連れが二人いたと思う、私は大体四、五間離れたところで見た私はその傍え近づいた、山田は自分で立つたと思う、それから山田の連れの人が出て来てお前投げたのかといつて私に向つて来たので山田が違う違うと言つて止めた、そうこうしてお互に口争いの様なことを言い乍ら山田の連れ(山中のこと)が後で投げられた場所の方へ行つた」旨の供述を綜合すると屋台店の前で被告人が山田不二男を投げとばし、同人は前のめりに四つん這いのようにして倒れ、その上に被告人が乗りかかるようになつたので、松村が被告人の手を引張つて起し山田の連れ(即ち山中)が山田を投げたのは山崎だと思つて同人に突きかかつたのを、山田が違うと言つて止めそれからごたごたしながら後に山中が倒れた十字路附近まで行つたことが認められるのであつて、この事実と当夜二、三人の者が投げ倒されたのであるが、前のめりに四つん這いに倒れたのは初めに山田が投げられたときだけで、他には四つん這い又は前のめりに倒れた者があることを認むべき証拠がないこと古田莞爾作成の鑑定書及び公判廷における証人古田莞爾の証言によると、被害者山中には後頭部に二、五センチ×一、二センチの挫創一個があり、之が死因となつていることが認められること、とを合せ考えるならば、司法警察員作成に係る被告人の供述調書の右供述記載部分は、被告人が屋台店の前で山田不二男を投げとばした際の情況を説明しているものとしか考えられず、少くとも被告人が山中を投げた情況を説明しているものとは到底解することができないのである。右供述記載中に「私が人を投げたところに人が転がつているのを見てその人を誰かが飲屋のところまで吊つて行つた」、と一見して恰も被告人が山中徳次郎を投げとばしたために同人が遂に再起し得なかつたのではないかとの印象を与えるような部分があるけれども、前記のように被告人の供述調書の記載が山中を投げたことの説明と解することができず、寧ろ初めに山田を投げたことの説明になるとするならばその人が飲屋へ吊つて行かれることはないはずであるから、右供述記載部分は事実に反すると解しなければならない。以上の通りであるから、右(2)の供述記載部分は全体として事実に符合せず、互に関連なき断片的事実、例えば(1)空地の横で誰かが被告人に突つかかつて行つたこと、(2)被告人が誰かを投げたこと、(3)人が転がつていたのを見たこと、(4)その人を誰かが飲屋へ吊つて行つたこと、(5)被告人が山中徳次郎を投げて怪我さしたと聞かされたこと等を、一つの因果律をなす社会的事実の如く綴り合わせたものとしか認められない。尨も司法警察員作成に係る松村勇夫の供述調書(之は昭和三十三年二月十日の公判廷における証人松村勇夫の供述の証明力を争うために提出されたものである)中には、同人の供述として、「飲屋の筋向いの広場のようになつたところで、被告人が人を投げてその上え馬乗りになつたので、池田の腕を掴んで引きはなした後、被告人に投げられた人が寝転がつたままでのびてしまつていて、それが被害者であつた」旨の記載があつて、被告人の右供述調書の記載と一致する如くであるが、右が事実に一致しないことは前認定の通りであり、又後に説明するように松村の右供述調書は虚偽に満ちたものであるから信用できない。

結局司法警察員作成に係る被告人の供述調書は証拠としての価値がない。

(ハ)、検事作成に係る被告人の供述調書には、本件犯行を否定する供述記載があるだけである。

(ニ)、被告人は公判廷において犯行を否定し、又「屋台店え帰つたとき椅子に倒れ寝ている人を見たがその人は私と喧嘩した人ではない。山中に対しては私は全く覚えのない事で、無理矢理警察で調書を取られた、覚えのない事は何回となく否定したが、威圧的な言葉で受附けてくれなかつた」旨記載した上申書を提出した。

(五)、証人松村勇夫の公判廷における供述及び同人の供述を録取した各供述調書について。

松村の司法警察員作成に係る供述調書及び検事作成に係る昭和三十二年十一月二十九日附供述調書には本件の犯人は被告人である旨の記載があり、同人は同三十三年二月十日の公判廷に於ては、被告人は犯人ではなく松村自身が犯人である旨述べ、同人の同年四月十五、十六、十八日附の検事作成に係る供述調書の記載及び同年五月二日の公判廷における供述の内容はいづれも初めに被告人が山中に対して暴行し、さらに起き上つてきた同人に対して松村が暴行したこととなつていて、同人の供述は首尾一貫せず矛盾に満ちているが、本件にとつては最も重要な証拠であるから以下において詳細に検討する。

(イ)、司法警察員作成に係る松村勇夫の供述調書には、(四)の(ニ)の末尾に掲げたような記載があるが同調書は松村勇夫の昭和三十三年二月十日の公判廷における同人の証言の証明力を争うために提出されたものであるから、被告人の犯行を認定するための証拠とはなし得ないものであるが、その記載が事実に符合しないことは前に説明した通りである。

(ロ)、検事作成に係る同人の昭和三十二年十一月二十九日附供述調書は、同人の昭和三十三年二月十日の公判廷における証言が右供述調書と相反し、供述調書が公判廷における証言よりも信用すべき特別の情況が存するとして提出されたものであるが同調書には同人の供述として、「私は池田を表の十字路附近まで連れて行き曲り角の所で君けんかをしたらわし等の立つ瀬がなくなるじやないかといつていさめていると、そこえ山田が来て一言二言いうと、池田はいきなり山田の両手を持ち腰払いというかどうか知らんが前え投げつけたため四つん這いになつてのめる様にして倒れその上え馬乗りになつたので、私は池田の腕を持つて引張つて起した。そこえ山中が来て池田に手拳で殴つて行きました、それを止めようとした私にも山中の手拳がいくつか当りました、その時山中がどうしたのか尻もちをつく様な恰好で倒れました、そして起き上つて、又も池田に飛びかかつて行こうとしました、すると池田は飛びかかつてきた山中の横え廻つて飛び掛つてくるのと逆な方向え足払をかけ、片手だつたか、両手だつたかで後ろえ倒しました、山中はその場で仰向けに倒れました……山中は投げられた儘起上らないので……私は若しかしたら死んだのではないかと思つた……私は山中に殴られましたが絶対殴り返したり投げたり等しておりません」、「山中が倒れた後西田が頭を持ち、足を山田が持ち、私は胴を支えて屋台え連れて行きました」等の供述記載がある。

然し右記載中、被告人が十字路附近で山田を投げて山田が四つん這いになり被告人が馬乗りになつたので自分が腕を引張つて起したとある部分は、(四)の(ロ)に掲げた証拠によると、被告人が山田を投げて、投げられた山田が右のような状態になつたのは屋台店の前であることが明らかであるから、この点に於て誤りがある。次に被告人が山田を投げたら直ぐ山中が被告人に殴りかかり飛びついて行つて仰向けに倒されたとの部分は、冒頭に認定した通り、被告人が山田を屋台店の前で投げてから皆でゴタゴタしながら四つ辻まで歩き、その後に山中が仰向けに倒されたのであつて、山田が倒されたのと山中が倒されたのとは時間的にも場所的にも相当の隔りがあるから、この点に於ても誤りがある。なお証人山田不二男は公判廷に於て、四つ辻の所で被告人に投げ倒された旨供述しているので、松村の前記供述記載部分は之を指しているのではないかとの疑もないではないが、松村は、被告人が山田を投げた後山中を投げたと説明しているのに対し、山田証人は、山中が倒された後に自分が投げられたと述べ、その順序が反対となつているので、之を意味するものと解することはできないから、やはり、松村の供述記載が事実に反する誤りあるものだといわなければならない。

又右供述記載中に、「山中がどうしたのか尻もちをつく様な恰好で倒れました」、とのあいまいな表現部分がある。この点はこれに続く、池田が山中を倒したという部分と共に、最も重要な個所であるのに、後者が甚だ詳細な表現をしているに拘らず、余りに漠然とし過ぎるのであつて、もし本当にその際倒れたのだとすれば山中徳次郎の死亡と関係がないとはなし難いから、取調べに当つた検事はこの点について深く追究したであろうと思われるのに、このようなあいまいな表現に止つていることは、右後者の供述記載と比較しても、又その後昭和三十三年四月に同人が検事に取調べられた際作成された調書には、事件後相当月日が経過しているに拘らず詳細を極めている(尤もこの調書は先づ被告人が山中を倒し、ついで松村が又起上つてきた山中を倒したこととなつているが)のと比照しても甚だしく不釣合であつて、何らか重要な事実を秘しているのではないかとの感を受ける。又右供述調書中に、「山中が倒れた後西田が頭の方を持ち、足を山田が持ち私は胴を支えて屋台え連れて行きました」との記載があるけれども、検事作成に係る小林きく枝の供述調書中の「私と山田と西田の三人で山中を運んだ」との記載、検事作成に係る西田喬の供述調書中の「私が頭を持ち、おかみさんと誰かがその身体を持つて屋台え連れて行つた」旨の記載、昭和三十三年五月二日の公判廷に於て証人松村は弁護人の、「証人は誰が山中を屋台まで連れて行つたか知らないか」との問に対し、「はい」と供述していることに照し、小林、西田、山田の三人が山中を屋台店へ運んだことが明らかであるから、右供述記載はこの点についても虚偽がある。

なお松村勇夫の司法警察員の作成に係る供述調書と検事作成に係る右供述調書の各記載は、いづれもその結論において、被告人が山中を倒したことになつているけれども、その具体的情況に関する部分を比較すると同一の事実を説明しているものとは到底考えられない程の相違があつて、その供述記載の信憑力は甚だ乏しいといわねばならない。

(ハ)、昭和三十三年二月十日の公判廷における証言について。

この日の供述はおよそ次の通りである。先づ検事の問に対し「被害者の人が飛び出して来て私にも池田にも喰つてかかり殴りかかつてきたが、私はなるべく逃げ廻り、池田も抵抗せんようにしていたが、その内私にかかつてきて衿のところを掴えたので放せ放せと手をひきはなした。被害者が道路に倒れるのを見ないが、転つているのを見た。その状態は仰向けになつていた」と答え、検事の、「証人は被害者が向つて来るのに対して突くとか殴るとかしたことがあるか」との問に対して、「西田君はお前がやつたと言いましたが私は覚えありません」、と述べ、さらに検事の、「証人は突きとばしたことはないか」、との問に対し、「持つた手をはらいのけたことはあります」、と答えて、結局、被告人が山中に対して暴行をしたとは言わずに、証人である松村自身が暴行をしたことを認めて、警察官及び検事の面前でしたとは全く異る供述をした。

ところが右供述調書の作成当時の情況については検事の問に対して、二十日の夜警察で事情を説明した時に調書をとられその時述べたことは間違いないと思う、それから一週間位して検察庁でその時のことを話したが、記憶の儘を述べた旨答えたが、さらに検事の、「証人が事件直後にとられた調書には被害者が倒れる時の模様等述べているが今の供述に依ると記憶がないとか、その時は見ていないとかいう、これはどちらが本当なのか」、との問に対し、「その時のことは記憶がないです」、と答えた。

然しそれに続く弁護人との問答は

問「殴りかかつたというのは平手かそれとも拳固か」

答「拳固です、私の衿首をもつた儘右の頬のところを四、五回殴りました」

問「何故山中は証人を殴つたのか」

答「わかりません、私は仲裁に入つただけです」

問「理由もなく殴られたとすれば相当腹が立つたと思うが如何」

答「別に腹を立てるということもありませんが被害者の山中という人を突き放しました」

問「突き放したら被害者はどうなつたか」

答「よろよろとよろめいて倒れました」

問「どんな風に倒れたか」

答「仰向けに倒れました」

問「倒れてから起き上らなかつたか」

答「起きたか起きんか覚えありません」

六問答省略

問「池田がその晩山中を投げたことを知らないか」

答「覚えありません」

四問答省略

問「証人は池田が山中を投げたのを見ていないか」

答「覚えないです」

問「それは見ていないと言えるか」

答「はい」

六問答省略

問「検察庁の調書をみると、池田が山中を投げたという風にのべられているが先程の供述と違う、どちらが本当か」

答「投げたのはみておりません」

問「山中が殴つて来た時池田は何もしなかつたか」

答「はい、何もしていません」

問「証人は山中が掴みかかる様にしたので手で振り離した、すぐその後でその場にいた山崎が電車道の方へ証人を連れて行つた、間違いないか」

答「間違いありません」

九問答省略

問「西田が“やつたのはお前だぞ”と言つたということだがそれは何処で言つたのか」

答「翌日、椙山女学校の仕事現場で、二人だけのとき言いました」

となつていて、松村は自分が山中に対して暴行をしたら同人は仰向けにひつくり返つたことを述べると共に、被告人は山中に対して暴行をしていない、或は暴行をしたのを見ていない、又は暴行をしたのを見た覚えがないと何回も繰返して供述した上、

次に裁判長が、「すると証人が倒した為に山中は死んだことになるのではないか」と問うたのに対しては黙して答えなかつたが、当時この沈黙は、暗黙の承認と解することができたのである。

以上の問答に続いて検事との間に、

問「証人は先程被害者がひつくり返つているのは見たが倒れるまでの経過は知らんとのべた、ところが今のべたところでは自分が倒したことになる、弁護人の尋問に対して突き放したら転んだという。どちらが本当か」

答「私が突放したら倒れたのです」

問「すると先程のべたことは嘘か」

答「…………」

問「証人は被害者が倒れたのを放つておいて山崎と電車道の方へ出たのか」

答「そうですが別に放つておいたわけでありません」

問「ぐるつと廻つて現場へ戻つて来たのか」

答「そうです」

問「その時被害者はどうなつていたか」

答「皆で屋台の方へ運び入れるところでした」

問「すると事件直後警察、検察庁でのべたことは全部嘘ということになるが、どうしてこういうことを述べたか、理由如何」

答「…………」

問「自分がやつたことなのだが池田にかぶせてやれと思つたのか」

答「そう思つたわけではありませんが……」

との問答があり、

最後に弁護人との間に

問「警察では最初から池田が犯人だとして取調べを進めた風だつたのではないか」

答「警察では何もかも池田がやつたといつているからお前達は帰つてよいと言つて帰してくれました」

問「だから自分がやつたのだけれども池田がやつたとのべたわけか」

答「池田君には誠に申訳けないことをしました」

との問答が行われたのである。

このように松村は、初めは被告人も自分も山中に対して何もしなかつたように述べ、次いで自分が多少暴行したことを認め、やがて事件は全く自分の行為のみによつて起つたので、被告人は全然関係がない旨供述し、最後にこれまで自分が責任回避して被告人に責任をかぶせていたことを認めて、被告人に対し深く謝罪の意を表明したのである。

松村は公判廷に於て従前の供述を突如として覆したことになるのであるが、公判廷における証人谷邦彦、山田日出夫の各供述、検事作成に係る西田喬の供述調書等を総合すると、事件発生後、松村が公判廷において証言するまでの間に次のような諸事実があつたことが認められるので、同人の供述の変化した理由が十分肯定できるのである。即ち、

昭和三十二年十一月二十日夜、関係者等が一応西警察署へ行つた後、被告人だけが同署に残され、西田、松村等一同が帰宅を許されたとき、松村は西田に向つて、「池さん気がつかなかつただろうか」、と話したことがある(この言葉は谷証人の証言によると、事件は松村がやつたのに、被告人は自分がやつたと思つて逮捕された形になつているので、それらのことに気がつかなかつたろうかという意味である)。事件の翌日西田、松村、山田日出夫等について雇主である谷邦彦が事件の調査をした際、松村は、「被告人が山中を掴えて投げたら、山中が倒れたまま起きなかつた、自分が大変だと言つてそばえ行つて見たら、虫の息でえらいことをしたと思つた自分も西田も手を出さん」と説明したが、西田は殆んど話をせず、谷から説明を求められてもあいまいな返事をしていた谷は当時瓶杁の住宅建築を請負つており、被告人が現場の責任者だつたが、被告人がいなくなつたので今後松村に責任を持たせると話したところ、西田は松村に向つて、「喧嘩もようしきらんような喧嘩ならはじめからするな」、と相当激しい語調でなじつた(この言葉は谷証人の証言によると、自分がやつたということもよう言えんような意気地なしなら、はじめから喧嘩をするなという意味である)。西田は間もなく郷里の九州へ行き、同月二十五日頃再び戻つてきたが、翌二十六日朝山田日出夫に対し事件当夜のことにつき、「自分が屋台店の外に出たとき被害者の山中が倒れていて松村が一番被害者のそばに立つていて、池田と山崎はちよつと離れて向い合つて立つていたのを見た、その前は見ていないが、松村から聞いたところによると、池田、松村、山中の三人が向い合つているとき、山中が池田に殴りかかつたのを松村が中へ入つて止めてはねたんだ」、と話したので、山田は西田と同行して谷を訪ね、「大変だ、こんな馬鹿な話がある」、という様な調子で話しかけ、山田と西田がかわるがわる谷に対して要するに松村が殴つた人が死んだので、犯人は池田でなくて松村だ、松村は前には全然手を出さんと言つたが、随分派手に殴つた旨を話し、殊に西田は、池田が全然山中に手を出さんということを確信があるかのように語つた。翌二十七日谷は松村に会つて、山田や西田からこのように聞いたが本当かと尋ねたところ、松村は済みませんと述べて自分がやつたことを認めた。とに角、谷は松村から、「俺が殴つたら倒れた」「池田でなくて松村だ」、との旨を聞き、山田も松村から、「自分がやつた」旨を聞いている。そこで、谷は松村に自首を進めたが、その頃、犯人であることを知りながらかくしておくと犯人隠匿罪になるということを聞き、今更松村に自首させたりすると、西田が松村を犯人と知りながらそれまで言わなかつたことが罪になつて、西田も逮捕されるようになるといけないと考え、成行きに委せる気になつたところ、山田や西田は自分等だけでも告訴するといきまいていた。松村は一度は自首する気になつたものの、家族のことが心配であるし、正月前のことでもあるので、自首することなくそのままになつていたが、逮捕されるだろうかと大変心配していた。事件後松村が妻と離婚しそうになつたとき、谷が仲に入つて纒めてやつたが、その際松村の妻に事件のことを話し、ひよつとしたら警察から来るかも知れんが落胆せずに頼むと話したことがある。そのうちに松村は証人として召喚されたのでその前に谷を訪ねたところ、谷は松村に、裁判は自分の言いようだで、自分で考えてうまく言うさとの趣旨のことを話したこと等が認められる。

以上のような諸事実を考察するならば、松村勇夫が警察官及び検事に対しては被告人が犯人であると言い、公判廷では自分が犯人であると述べるに至つた経過及び理由が明らかになり、公判廷に於て前記のように供述したことが無理なく十分に理解し肯定することができるのである。

尤もその後の昭和三十三年四月十六日附検事作成に係る松村の供述調書中には、「法廷では池田に同情した余り池田が投げたりしていないと嘘の証言をした」旨の記載があり、同年五月二日の公判廷において同人は、「池田が投げたのを見とらんと述べたのは池田をかばうためであつた」旨述べているけれども、右公判期日における同証人の証言及び公判廷における証人谷邦彦、山田日出夫の各証言によると、被告人と松村は本件発生の約一ヶ月前から一緒に働くようになつて知合つただけで、両者間に特別に親しい関係がないばかりでなく両名の仲は余り良くなく、むしろ被告人は松村を嫌い、松村がおれば自分は働くのをやめたいという程であつたことが認められるから、被告人とそのような関係にある松村が自己が刑罰を受ける危険を犯してまでも被告人をかばう心境になるとは到底考えられないから、松村の右供述記載及び供述は信用できない。

(ニ)、検事作成に係る昭和三十三年四月十五、十六、十八日附供述調書(之は五月二日の証言が右供述調書と相反し、供述調書が公判廷に於ける証言よりも信用すべき特別の情況があるとして提出された)及び同年五月二日と六月十六日の公判廷における供述について。

松村は昭和三十三年四月八日、山中徳次郎に対する傷害致死事件の被疑者として逮捕され、同月十八日釈放されたが、その間前記各検事調書が作成され、その後同年五月二日及び六月十六日には本件の証人として公判廷において供述し、右供述調書の記載及び証言はいづれも結論としては、先づ被告人が山中を投げ倒し、起き上つてきた同人を松村が又倒したところ、山中はそのまま起き上らなかつたというのであつて、昭和三十二年十一月二十九日附検事作成の供述調書及び昭和三十三年二月十日の公判廷における証言を変更した。

(1)、四月十五日附の供述調書には、被告人が屋台店の前で山田を倒すときの情況につき、「池田は何と思つたのか山田の両膊の辺りを掴み柔道の構えの様な姿勢で二、三歩退つて山田を手許に引きつけ足払いの様な技をかけたので山田は前へのめる様な恰好で倒れました」との記載があり、被告人が山中を倒すときの情況につき四月十六日附の供述調書には、「池田は右手で山中の胸倉を掴み、左手で腰の辺を掴んで前に山田を投げたと同様に柔道の身構えの姿勢で二歩三歩後ろずさりして山中を手元に引きつけ外掛けの様な恰好で足を掛けると同時に山中を後ろへ仰向けに倒した」との記載があり、いづれもその情況について詳細に説明しているのである。然し、

(A)、山中を倒したときの説明は昭和三十二年十一月二十九日附検事作成に係る供述調書の記載とは相当に差異がある。

(B)、松村は五月二日の公判廷において「当夜屋台店へ行つたときは五、六合飲んでいた、全然判らんという程ではないが、ホロ酔よりもう少し酔つていて、口は普通に言えたが、足は一寸ふらつくかなと思う程度だつた」旨供述しているし、検事作成に係る小林きく枝の供述調書には、「池田さん等が入つて来られた時は三人は他で呑んで来て居り相当酔つて居りました」、「その三人の人はコップ一杯宛酒を注文して呑まれた」との記載があるので、松村は当時相当に酔つていたことが認められること、同人の四月十六日附の供述調書によれば被告人が山中を投げるのは「その間非常に素早い動作でやりましたので一瞬の出来事といつてもよい様な動作でした」、との記載があつて、その動作は非常に早く瞬間的なことと思われること、四月に検事に調べられた時は、事件当時よりすでに百四十余日を経過していること等を考え合せると、松村が右のように当時の被告人の行動を詳細に観察し、記憶し、表現し得たことについては甚だ疑問を持たざるを得ない。

(C)、右供述調書の被告人が山田を倒したときと、山中を倒したときとの方法に関する説明は、(a)前者は両膊の辺りを掴み、後者は右手で胸倉を掴み、左手で腰の辺を掴み、(b)前者は足払い、後者は外掛け、(C)前者は前にのめり、後者は仰向けに倒れたの三点が相違するだけで、他は全く同じである。ところが五月二日の公判廷に於て、松村は被告人が山中を倒すときの情況につき「池田が足払いの様に足をかけて山中を投げた、両手で山中を掴えて池田の右腰の方へ引つけるようにして投げた、池田が足を外からかけたかどうか判らん、山中は仰向けに倒れた」と述べ、続いて、被告人が山中に足払いをかけたと二回にわたり供述した。これによると被告人が山中を倒した方法に関する四月十六日附供述調書の記載が変更されて、仰向けに倒れたとの点を除いては、同月十五日附供述調書の、被告人が山田を倒したときと全く同一になつてしまつたのである。凡そ、誰かが人を倒したということについて、ただ人を倒したという結果だけを言うのならば、それを見ていなくても、或は架空のことでも証言することは可能であるので、その事の真実性が裏付けられるためにはその具体的情況に言及するところがなければならない。ところが、松村の説明は右のようにその重要なる点において供述が容易に変更されて、被告人が山田を倒したときと全く同一となるに至つては、松村は被告人が山中を倒したのを現認しておつたか否かについて疑問を持たざるを得ない。寧ろ現認していないのであるが被告人が山中を倒したと供述するため、その倒した方法については被告人が山田を倒した際の方法を借りて表現し、ただ検事の面前では多少方法に変更を加えて両者に差異あらしめたが、公判廷に於ては前の供述を忘れたため、遂に山田を倒したときと同じ表現をするに至つたのではないかと疑えないこともない。しかもその上、松村は五月二日の公判廷に於て、検事の問に対し、「池田が山田を倒したときどんな風に倒したか判然り覚えておりません」、と答え、弁護人の問に対しても、「池田が山田をどんな風に投げたか判らん」と述べ、又弁護人の問に対し、「私は判然り見ておらないですが兎に角山中がかかつて行つたら池田に投げとばされたことは間違いありません」、と答えている。四月十六日に検事に対してあれ程まで詳細に説明できたことが、五月二日には結局何も説明できないということは理解できないことであり、殊に、被告人が山中を投げたことを判然り見ておらないというに至つては被告人が山中を投げたことを種々説明している四月十六日附供述調書の記載や五月二日の公判廷に於ける供述が如何にも良い加減のものであるということ、従つてその内容も日時の経過と共に如何様にでも変化していくのだということを認めざるを得ない。だから、いくら「山中がかかつて行つたら池田に投げとばされたことは間違いありません」、と述べたところで、容易に之を信用し得ないのではないか。

(2)、山中が被告人に投げられて後どのように行動したかについて、松村の四月十六日附の供述調書には、「山中は直ぐ上半身を起しよろけながら立上り池田のそばに立つていた私の胸倉を両手で掴んできました」、同月十八日附の供述調書には池田に投げられた山中はよろけながら立上り私の胸へ寄りかかる様にして胸倉を両手で掴みました、山中のその時の勢は通常けんかをする時の飛びついてきて胸倉を持つという状況でなく、ふらふらしながら寄りかかる様子でした」、との各供述記載があり、同人は五月二日の公判廷に於て、「私があの場に立つていなくても山中はひよろひよろ倒れたかもわからんと思います、ひよろひよろ立上つてきたのですから」、と供述しながら、同日の公判廷に於て、「山中は池田に倒された後、起上つて喚きながら私に突掛つて来て胸倉をとつたのです」、「山中は倒れて直ぐ起きました、併し瞬間的という程早く起きたわけではない、“ガバッ”と起き上つて私に組付いてきたのです」、と前と相反する供述をしている。又自分が山中を倒したとき及びその後の心境につき、四月十六日附の供述調書には、「私が突放した行為だけで山中が死ぬという事はとうてい考えられません」、同月十八日附の供述調書には、「山中の両手を持つた儘突き放しましたが、突き放したというよりは私の感じでは押し返したという程度のつもりです」、「押返したという丈けの事で山中の頭が割れて死ぬという事は考えられません」、との各供述記載があり、五月二日の公判廷に於ては、「私があの場に立つていなくても山中はひよろひよろ倒れたかもわからんと思います」、と供述して、自分は山中の死亡とは全く無関係であると主張して割合に平然とした心境を示しながら、他面同月十五日附の供述調書には、「山中が起上らないのでは私は大変な事になつたと思い足がふるえ心臓がどきどきしてきてどうしていいか判らない気持になりました」、「山田、山崎、西田等は夫々その周囲へ集つてきた様ですが、私は気が顛倒しそうになつていたので、それらの者がどの様な事をいい、どういう事をしていたのかは記憶がない」、との各供述記載があり、五月二日の公判廷においても、「私は事の意外に呆然として自分の身体が震えてきました」、と述べて、前者とは全く矛盾する心境を表現している。この後者は自分が山中を倒してそのため同人が再起不能になつたことを直観した結果起つた心身の異常な情況を正直に説明したものと考えられないだろうか。

(3)、四月十五日、十六日、十八日附の松村の各検事調書、五月二日の松村の公判廷における供述にはそれ自体の中に右のような矛盾や不自然さがあつて、その真実性を容易に信じ難いのであるが、何故松村はそれまでには自己の供述は元より、他の如何なる証拠にも現われていなかつた「山中に対して池田と自分が相次いで暴行した」との供述をするに至つたのであろうか。前記のように松村は四月八日に被害者山中徳次郎に対する傷害致死被疑者として逮捕され、引続き勾留されて、被告人を起訴した検事の取調を受けた(松村は前にも同検事の取調べを受けている)。同検事は被告人が犯人であることを確信して起訴したのであろうが、その資料中松村の十一月二十九日附の検事調書は最も大きな比重を持つていて、之が無価値となれば本件は公訴を維持し得なくなるものでありしかも自己の面前における供述には他の証拠よりも大きな価値を認めようとするのは人間自然の情であるから、二月十日の公判廷におる供述よりも右調書の方が真実に合致するであろうとの意向を以て松村の取調に臨んだことは疑ないであろう。然し若し松村が飽くまでも右公判廷における供述が真であると言うならば、同人を傷害致死犯人として起訴する考えであつたことが推測できる。これは松村を偽証罪の容疑ではなく、傷害致死容疑で勾留請求している事実によつても窺知できるのである。他方松村としては、公判廷における供述が真であるとするならば自分が被告人として起訴され刑に服さねばならんことになるし、検事調書が真であるとするならば偽証罪の追究を受けるべく、いづれとするも自己の運命の重大な岐路に立つて如何に之を突破するかに苦心しなければならなかつたのであつて、かくて松村は最も安全なる道として、検事調書も真実であるが、公判においても必ずしも嘘をいうたのではないとして前記検事調書記載のような供述をするに至つたものではあるまいか。

凡そ人は自己に不利益なこと、殊に犯罪となることを認めたくないことは経験則上明らかであるから、いささかの圧迫も強制もない法廷に於て、被告人の犯罪事実立証のため検事によつて取調べが請求された証人である松村勇夫が、犯人は被告人ではなく証人の自分である旨を、自ら進んで承認することは、それだけですでにその供述に真実性が存するものと認め得るのであるが、証言当時被告人は勾留されていて、松村はその面前で供述しているのであつて、もし自己が犯人であることを承認すれば、被告人と同じく勾留され起訴されるであろうと予想し得たであろうのに、それにも拘らず之を承認したものであることと、事件発生後松村が証人として出廷するまでの間に生起した前記各事実並びに、公判廷に於ける証人谷邦彦、山田日出夫の各供述、被告人作成の上申書によつて認め得る、松村が昭和三十二年の二月頃山田日出夫の洋服から五千円を盗み、山田は雇主谷の妻に嫌疑をかけ、二日間いざこざが続いた揚句、谷は従業員一人一人について調査をなし、その結果松村が漸く自白して謝罪し、月給より天引して弁償するようになつた事実により認められる松村の性格を参酌して考えると、松村は初め自己の責任を免れようとして被告人が犯人である如く警察官及び検事に対して供述したが、昭和三十三年二月十日の公判廷に於て遂に真実を供述するに至つたものと解するのが相当であるから、二月十日の公判廷に於ける松村の供述は、他の公判期日に於ける同人の供述並びに同人の如何なる供述調書よりも遙かに信用するに足り、真実に合するものと認めなければならない。従つて前記(二)の証拠はあつても、被告人が本件犯罪を行つたことを認めることは到底できないのである。

よつて本件は主たる訴因についても、予備的訴因についても有罪とするに足る証拠がないから、被告人に対し主文の通り無罪の言渡をする。

(裁判官 井上正弘 平谷新五 水野裕一)

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